スパゲッティ・ナポリタンの起源と普及

料理
スパゲッティにトマトケチャップを組み合わせた日本発のパスタ料理であるスパゲッティ・ナポリタンは、広く知られています。
日本で広く愛されるこの料理の起源や発祥の詳細は、未だにはっきりしておらず、グルメ愛好家の間で熱い議論の対象となっています。
実はこのナポリタンは、イタリアの伝統的な調理法ではなく、また、ケチャップの使用も忌避されているそうです。
そこで、この記事では、そのようなことを踏まえつつ、スパゲッティ・ナポリタンの発祥についての概略を紹介していきます。

「ナポリタン」の起源と横浜ホテルニューグランドの役割

「スパゲッティ・ナポリタン」の発祥として、横浜ホテルニューグランドが中心的な役割を果たしていることが広く認知されています。
特に、同ホテルの第二代総料理長である入江茂忠氏がこの料理を考案したとされています。
戦後、アメリカ軍の簡易的なスパゲッティの食べ方に触発され、入江氏はそれを本格的な料理として再構築しました。
この新しいアプローチは「スパゲッティ・ナポリタン」としてメニューに加わり、その美味しさからすぐに名物料理となりました。
高橋清一氏の『横浜流 -すべてはここから始まった-』にもその詳細が記載されており、ナポリタンがいかにして日本国内に広まったかが述べられています。
入江氏のアイデアが、ただのアメリカ軍の食事から洗練された一品へと昇華されたわけですが、高橋氏はこれを「ナポリタンを世に広めた元祖」と位置付けています。
ナポリタンはその後、全国的に愛される料理へと進化していきました。
考案者である入江氏は、横浜ホテルニューグランドの名前を冠する一流のシェフで、初代総料理長サリー・ワイル氏の指導のもと技術を磨いた経歴を持っています。
また、1964年の東京オリンピックでは選手村の食堂料理長の一人としてその腕を振るいました。
1952年にホテルが接収解除された際にはニューグランドに戻り、総料理長として多くの功績を残しました。
しかし、ナポリタンにまつわる議論の奥深さは、これだけの情報では決着がつきません・・・

ナポリタン誕生の謎に迫る!戦後日本と横浜センターグリルの矛盾

最近の調査によると、1946年に横浜で開業した「センターグリル」でも開店当初からナポリタンが提供されていたという情報があります。
センターグリルの創業者、石橋豊吉氏はサリー・ワイル氏の弟子であり、ワイル氏が運営していたホテルで働いていた経歴があります。
センターグリルの二代目オーナー、石橋秀樹氏は、入江氏からのアドバイスを受けてナポリタンをメニューに取り入れたとyahoo!ライフマガジンのインタビューで述べています。
しかし、時系列に矛盾が生じます。
入江氏がニューグランドの総料理長に就任したのは1952年であり、センターグリルの開業はそれよりも前の1946年です。
この矛盾を解明するためには、ニューグランドの記録が重要です。
実は1934年1月27日のニューグランドのメニューには、「Spaghetti Napolitaine」の記載があることから、ナポリタンの起源はさらに遡る可能性があります。
フランス料理においては、トマトソースを使ったスパゲッティを「ナポリ風」と表現するのが一般的です。
これはナポリがトマトの産地として知られるためです。この料理スタイルは、”Spaghetti à la napolitaine”として古くから西洋料理に存在しており、日本のナポリタンのルーツとも言えるでしょう。
フランス料理の巨匠、オーギュスト・エスコフィエ(1845~1937)が著した『Le Guide Culinaire』(1902年刊行)や、プロスペール・モンタニェ(1864~1968)の『Larousse gastronomique』にも、この種のレシピが見られ、基本的には茹でたパスタにトマトソースを和えるシンプルな調理法です。
日本においても、1920年に鈴本敏雄によって発行された『仏蘭西料理献立書・調理法解説』「Spaghetti à la Napolitaine」の記述があり、ここではスパゲッティにトマトを和えるという作り方が掲載されています。
これらの事実から、日本のナポリタンがどのようにして発展していったのか、その文化的背景がより明確になります。

ナポリタンの真実とは?フランス料理の影響を受けた日本洋食の歴史的背景

一般的に言われているのは、「戦後アメリカから入ってきたヌードルが土着化して定着した料理」とされており、ヨーロッパのパスタ料理とは無関係であるとされています。
しかし、これにはいくつかの点で疑問が残ります。
実際には、日本には明治から大正期にかけてフランス料理をベースにした「スパゲッティ・ナポリタン」という料理がすでに存在していました。
そう考えると、この料理は時代を経て変化し、現在のナポリタンに進化したと考えるのが妥当です。
この歴史的背景を無視して、戦後の進駐軍によって持ち込まれたアメリカ料理がナポリタンの起源であるとするのは、日本の洋食文化を理解していないことに起因する誤解です。
戦前の西洋の料理書では、トマトソースを用いたスパゲッティが「ナポリタン」として紹介されていますが、トマトケチャップを用いたスパゲッティ料理を「ナポリタン」と呼ぶ記述は見当たりません。
戦後のアメリカ軍が好んで食べたケチャップスパゲッティがナポリタンに影響を与えた可能性は否定できませんが、これをナポリタンの唯一の起源と見なすのは適切ではありません。
アメリカの文化的影響を受けた「ナポリタン」という料理が、日本でどのように定着したかを理解するには、フランス料理の影響を見落としてはなりません。
日本の洋食の起源は、開国後に日本に伝わったフランス料理にあります。
明治時代には、外国人が集まる長崎や横浜、神戸の居留地で多くの外国人ホテルが建設されました。
これらのホテルのレストランは、経営者がイギリス人やアメリカ人であっても、多くがフランス料理のスタイルを採用していました。
その理由は、当時の西洋での正餐のスタンダードがフランス料理だったからです。
この環境で働いていた日本人コックたちは、真の西洋料理の技術を学び、後に日本のホテルやレストランで料理長として活躍しました。
彼らが日本の洋食界を形成していく過程で、フランス料理の影響が強く反映されました。
また、アメリカが移民の国であるため、その料理文化はイギリスやイタリアなど様々な国の影響を受けていますが、料理教育の基本はフランス料理に立脚しているのです。
このような背景から、ナポリタンがフランス料理の影響下にあることは確かであり、その名前が定着した理由も納得がいくでしょう。

トマトソースからケチャップへ!進化するナポリタンの歴史と日本洋食への影響

ナポリタンという料理には、トマトソースを使用した伝統的なスタイルと、トマトケチャップを使用した現代的なスタイルがあります。
一部では、トマトケチャップで和えたスパゲッティこそが真の「ナポリタン」と認識されているようです。
これは、トマトソースを用いるよりカジュアルなスタイルとされており、特に家庭料理として親しまれています。
荒田勇作氏の『荒田西洋料理』(1964年刊)によれば、伝統的な「Spaghetti à la napolitaine」は、シンプルにトマトの風味をスパゲッティに付けたものから発展して、シャンピニヨン、芝海老、ペパロニやサラミといった具材を加えた豪華な料理へと変化しています。
荒田氏は、トマトケチャップで味付ける方法も否定してはいませんが、プロの料理人はもっと洗練された技法を用いるべきだと提案しています。
これにより、ナポリタンの料理法には柔軟性があり、その味わいも多様であることがうかがえます。
荒田勇作氏の著書では、スパゲッティ・ナポリタンをフランス語、英語、日本語の三言語で記載しており、「スパゲッティのトマト和えナポーリ風」と日本語で表現されています。英語では”Spaghetti napolitan“と表記されていますが、これは和製英語であり、本来のナポリ風を意味する英語は”neapolitan”です。
この点からも、日本でのフランス料理の解釈や変容が窺えます。
この書物によると、元々トマトソースを用いる伝統的なナポリタンが、手軽さを求める日本の家庭でトマトケチャップに置き換えられて普及した経緯があります。
このように、ナポリタンはフランス料理から始まり、日本の洋食としてトマトケチャップを使った形に進化していったと推察されます。
この変遷は、トマトソースからケチャップへの移行として荒田氏の記述からも裏付けられています。
当初高級品であったトマトケチャップが、今では広く受け入れられる大衆的な調味料となったことも、この進化を象徴しています。
トマトケチャップが日本に初めて導入されたのは明治時代の後半で、その当時は高級な調味料として扱われていました。
家庭で日常的に使われるようになったのは、第二次世界大戦後のことです。この時期、アメリカの進駐軍が大量のトマトケチャップを持ち込んだことから、日本で広く普及し始めました。
センターグリルの二代目オーナー、石橋秀樹氏は、ニューグランドの元総料理長・入江氏のアドバイスにより、ナポリタンをメニューに加えたといいます。
しかし、トマトの高価さから、手軽に手に入るトマトケチャップを代用して料理を作るようになったと、yahoo!ライフマガジンのインタビューで述べています。
このような経緯で、戦後アメリカからの影響を強く受けたトマトケチャップが使われるようになり、本来トマトソースを使用していたナポリタンがトマトケチャップで作られるように変化していきました。
それが現代ではトマトケチャップを使用したナポリタンが広く受け入れられています。

ニューグランド発祥説の背景

なぜ「ニューグランド発祥」という説が定着したのか、その理由は日本におけるア・ラ・カルトスタイルのレストラン文化の確立に関連しています。
日本の洋食文化は明治から大正にかけて、18世紀から19世紀にかけてのフランスの食文化の影響を強く受けていました。
この時期、日本の洋食は主にコース料理や宴会形式で提供され、ア・ラ・カルトで単品料理を注文する概念はあまり存在しませんでした。
フランスでも単品で料理を注文する文化が普及したのは19世紀以降のことであり、日本ではそれが昭和の時代に入ってから一般的になったとされています。
この歴史的な背景が、ニューグランドにおける料理スタイルの進化と重なり、特定の料理に発祥の地が求められる際に、先駆けとしてニューグランドが名を連ねるようになったのです。
レストランという概念が広まったのは、18世紀末のフランス革命の後です。
この時期、王政が崩壊し、多くの宮廷や貴族の料理人が職を失いました。
彼らは生計を立てるため、一般市民向けに料理の提供を開始し、そこから現代のレストラン形態が発展しました。ちなみに、”Restaurant”という言葉はフランス語由来です。
日本における西洋料理の導入は、文明開化期に始まりましたが、当時は主に宮廷料理の影響を受けた形で、コース料理や宴会料理が中心でした。
これは、当時の日本で西洋料理を楽しむことができるのは、主に上流階級や裕福な層に限られており、社交の場や宴会での需要が高かったためです。
1920年代までの日本における外国人ホテルのレストランでは、”table d’hôte”(ターブルドート)方式が主流でした。
これは、ゲストがテーブルに着席すると、レストラン側で事前に決められたコース料理が順番に提供されるスタイルで、メニュー選択の自由度は低かったのです。
このような食文化は日本特有のものではなく、元々はフランスにおいても似た形式が取られていたため、フランスの影響を色濃く受けていました。

単品メニュー革命!ニューグランドが切り開いた日本のレストラン文化

単品メニューが普及するきっかけを作ったのは、1927年に開業した横浜ホテルニューグランドでした。
フランスから招聘された総料理長サリー・ワイル氏の指導のもと、メインダイニングとは別にカジュアルな食事が楽しめる「グリル・ルーム」が設置されました。
この新しい取り組みは、日本のレストラン文化における大きな転換点となり、そのスタイルはすぐに人気を博し広まりました。
当時、日本では洋食一品を提供する食堂や、一品メニューを出す店はありましたが、本格的な西洋料理を提供するレストランで単品を注文する文化はほとんどありませんでした。
また、大震災後の大衆食堂ではカレーライスやコロッケ、豚カツなどは普及していましたが、スパゲッティのような洋食はまだ一般的ではなかったとされます。
このように、横浜ホテルニューグランドは日本のレストラン文化における単品メニューの普及に大きな役割を果たしました。
その影響は現代にまで及び、現在のレストランスタイルの原点とも言えるでしょう。
ホテルニューグランドでの革新的な取り組みとして、サリー・ワイル氏によってア・ラ・カルトメニューが本格的に導入されました。
その中に、様々な名前で呼ばれていたスパゲッティ・ナポリタンも含まれていました。
戦前にワイル氏の元で修行し、後にホテルオークラの総料理長となった小野正吉氏は、この点について詳述しています。
彼の証言によれば、ワイル氏は従来の定食スタイルに加え、グリルルームを設けア・ラ・カルトでの食事を提供し始めたのが画期的でした。
スパゲッティ・ナポリタンやドリアなどの料理が、彼によって初めてメニューに載せられたとされ、これが現代のレストランで気軽にパスタ一皿を楽しむ文化の先駆けとなりました。
ア・ラ・カルトメニューを先駆けて導入したワイル氏のグリル・ルームは、その時代に革新的なヒット作となり、これが他のホテルやレストランにも影響を与え、同様のメニューが普及し始めました。
この動きが、ニューグランドでナポリタンが発祥したという話に繋がっていると考えられます。
以前は、ア・ラ・カルトメニューが主流となる前には、ナポリタンは単なる付け合わせとして提供されることが多かったです。
たとえば、オーギュスト・エスコフィエが著した料理書には、“Garniture à la Napolitaine”(ナポリ風ガルニ)と記されたレシピがあり、これは茹でたスパゲッティをトマトピューレとバターで和えたものでした。
この料理は主に肉料理の添え物として使用され、仔牛のカツレツに赤く染めたスパゲッティを添える「コート・ド・ヴォー・ナポリテーヌ」(仔牛背肉のカツレツ・ナポリ風)などの料理が、日本の洋食に見られる典型的な盛り付けを思わせます。

ワイルから入江へ、ケチャップが広めた戦後の味

しかし、この理論によれば、戦後に入江氏が開発したという説と矛盾が生じます。
ニューグランドで初めてナポリタンを提供したのはワイル氏の時代とされていますが、入江氏がその後、独自に発展させた可能性があります。
考慮すべき点は、戦前のナポリタンが現在私たちが知る「ナポリタン」とどれだけ一致していたかです。
ワイル氏の時代にすでに現在のナポリタンが確立されていたとすると、入江氏が戦後に改めて開発したという話が出る理由が見当たらないためです。
恐らく、ワイル氏の作ったスパゲッティ・ナポリタンは、過去の料理書に見られるように、単にパスタにトマトソースをかけただけのものであったかもしれません。
それを入江氏が現代的な形式、すなわちケチャップを使ったもっと親しみやすい料理に再構築したのではないでしょうか。
こちらの考え方には、ニューグランドの開業時にワイル氏の下で修業し、後に大阪の高級レストラン「アラスカ」で料理長を務めた飯田進三郎氏が提供したスパゲッティ・ナポリタンが良い例です。
飯田氏のナポリタンは、トマトとミルクのみを使い、塩と胡椒で味付けされた非常にシンプルなものでした。
戦前の日本では、トマト、ミルク、パスタそれ自体が高級食材で、それだけで豪華な料理であったと言えます。
しかし、戦後ニューグランドがGHQの接収から解放され、新たなメニューを考案する際、入江氏はアメリカから大量に輸入されていた食材を使用して、より豊かなナポリタンを開発しました。
彼はハム、マッシュルーム、ピーマンを加え、新しいスタイルのナポリタンを生み出しました。
この新しいスタイルは横浜の洋食屋や軽食堂で取り入れられ、トマトケチャップをトマトソースの代用として用いることで、手軽に作れる「ナポリタン」として広まりました。
特に戦後、アメリカから輸入されたトマトケチャップが手に入りやすくなったことが、この流れを加速させました。
ワイル氏の指導を受けたセンターグリルの創業者、石橋豊吉氏も、入江氏の影響を受けてナポリタンをメニューに加えましたが、コストの問題からトマトの代わりにケチャップを使用した例です。
これが、現代に至るナポリタンの広まり方の一例と言えます。

本物のナポリタンとは?トマトソースからケチャップへの進化

もしかしたら、ニューグランドでは戦前にサリー・ワイル氏が提供していたトマトベースのナポリタンがあったのに、戦後入江氏が復職した際に、進駐軍向けに供されていた単純なケチャップと塩コショウの混合物に失望し、「これが本物のニューグランドのナポリタンではない」と考えたのかもしれません。
それが、彼が「開発者」とされる伝説の起源である可能性があります。ただし、その場合、入江氏は「再現者」としての役割を果たしており、本来の「開発者」ではありません。
今では、ケチャップではなくトマトソースを使用したナポリタンをニューグランド以外で見かけることはほぼありませんし、フランスの伝統的な「ナポリタン」も現代のフランス料理店ではほとんど目にすることはありません。
このため、トマトソースを用いたナポリタンの存在自体が珍しく感じられることもあります。
しかし、1976年に出版された『月刊専門料理』では、帝国ホテル村上信夫氏がトマトソースを用いたナポリタンのレシピを紹介しており、これには茹でたパスタをバターで炒め、トマトソースで和えてチーズを加える手順が記されています。
この記述からも、一時期は日本の一流ホテルでトマトソースベースのナポリタンが一般的だったことが伺えます。
フランス式のスパゲッティ・ナポリタンは、トマトソースを用いた正統派の料理として知られていましたが、トマトケチャップの流行とともに、このスタイルが変化しました。
日本ではトマトソースの代わりにトマトケチャップが使われるようになり、「ケチャップ・ナポリタン」として広まっていったのです。
この変更は、トマトケチャップの方が調理が簡便であるため、特に街の食堂などで好まれました。
また、高級感のあるニューグランドで提供されるトマトソースベースのナポリタンと、より庶民的な食堂で提供されるケチャップ・ナポリタンとの間で、どちらがより広く受け入れられるかは明らかでしょう。
ナポリタンを最初にメニューに載せた店については様々な説がありますが、確認できる中で最も古い記録は、1934年1月27日にニューグランドで提供された“Spaghetti Napolitaine”です。
この事実は、フレンチスタイルのナポリタンとケチャップを使ったナポリタンの融合の歴史を物語っています。

まとめ

洋食の起源に関する論争は、ナポリタンに限らず数多く存在します。
これは和食も同様で、多くの大衆料理が特定の誰かから直接学ばれたわけではなく、手元にある食材で創意工夫して作られ、その後広まったものが多いです。
また、レストランやコックが常に正統な料理知識を持っているわけではなく、しばしば見た目や一部の特徴だけを取り入れた料理が新たな名前で提供されることもあります。
このように、多くの場合、ナポリタンやイタリアンといった名前が付けられた料理の背後には、正確な起源よりも創造性や偶発性が大きく関与していることがうかがえます。
スパゲッティをトマトケチャップで炒めたナポリタンのような料理は、単純ながらも広く受け入れられた例です。
このような料理の正確な起源を突き止めることはほぼ不可能でしょう。
もともとはフランスの「Napolitaine」として知られていた料理がベースであるため、特定の発祥地を求めること自体が無意味かもしれません。
特に日本のように、外来の料理が独自の進化を遂げる国では、オムライスやハヤシライスのような明確に日本発の料理と違って、ナポリタンやグラタン、ビーフシチューのような既存の欧州料理に対する「元祖」を決定することは困難です。
したがって、もし更に古い「ナポリタン」のメニュー記録が見つかったとしても、それは単に保存されていた古い記録の一つに過ぎず、その料理の発祥を決定づけるものではありません。
ニューグランドが「ナポリタンの最も古い記録」とされる点では、それはあくまで現時点で見つかっている証拠にすぎません。
特に「ケチャップを使ったナポリタン」においては、誰がトマトソースの代わりにケチャップを初めて使用したのかは、現在では判明不可能です。
どんなに古いメニューを発見しても、そのナポリタンがトマトソースかケチャップで作られたかを明確にすることは難しく、この点においては永遠の謎と言えます。
しかし、ナポリタンについて調べたことで明らかになったのは、「ナポリタンとはそういう料理である」ということかもしれません。
それでも、いわば「先駆け」として特定するならば、Napolitaineを「ナポリタン」と名付けて単品料理として提供した最初の人物である横浜ホテルニューグランドのサリー・ワイル氏と、その料理を洗練された形で提供した入江茂忠氏を挙げるのが妥当だと考えられます。
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